4.-東恩納寛量 Part.1-

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ペリーが那覇港に現れ、砲艦外交で圧力をかけ、大砲3艦と183名の武装兵と共に半ば強引に上陸、首里城に入った1853年の嘉永6年、沖縄空手の那覇手中興の祖と言われている東恩納寛量が那覇の西村に生まれた。

それから20年後の明治12年に琉球でも廃藩置県の革命さわぎが起きるのだが、父・東恩納寛用は山原船を3隻も保有し、薪の迎商を手広く行っていた。小柄ながらも抜群の運動神経の持ち主であった東恩納寛量は、唐手が得意のガキ大将だった。家業を手伝いながらも、すぐ近くの那覇港での外国の船や山原船の往来など、その賑わいを見ながら育った。幼名を真牛(モーシ)、唐名を慎善円熙(シンゼンエン)と称した。

やがて持って生まれたその武術の才能を活かすべく、明治6年、久米村の猫のように身軽なことから「猫新垣(マヤーアラカキ)」と呼ばれていた新垣世璋に弟子入りし、琉球唐手・那覇手の修業を開始した。

当時、今の沖縄空手は手(てぃ)と呼ばれ、首里手(スイティ)、那覇手(ナーファティ)、泊手(トマイティ)に大別され、それぞれの特徴を維持しながらジワリと普及していった。
那覇手の運歩は内八字、足親指を内側に向けて前進、突き蹴りのタイミングはスローで呼吸は外に大きく呼吸する。体さばきは首里手と同様、自然体や猫足体が普通である。

寛量が那覇手の修業を始めた2年後の明治8年、日本政府から琉球藩(元琉球王府)に、清国渡航禁止令が出た。そのきっかけと理由は明治4年、沖縄の南300キロの宮古島から首里王府への貢納船が風に流され台湾に漂着、乗組員66人の内54人が殺害された。 その報復として日本政府は明治6年5月、西郷縦道を大将に3600人の兵と共に台湾の高山族を征伐した。
この軍事行動により日本政府は沖縄を日本国の一部ということを世界に特に清国に対し、宣言したことになった。琉球藩が清朝の新皇帝に慶賀史を派遣する計画を知り、琉球藩と清朝との国交断絶を決定し、清国渡航禁止令の発布となった。

この琉球藩と清国の国交断絶と清国渡航禁止令が、琉球唐手・那覇手の武士と成長していく東恩納寛量の行く手に大きく立ちはだかり、彼を波乱の人生へと突き進ますのである。
参考資料
− 「沖縄空手古武道辞典」(柏書房)
− 「空手名人列伝」(佐久田繁 著)
− 「沖縄空手列伝百人」(外間哲弘 著)
− 「空手道・古武道基本調査報告書」(沖縄県教育委員会文化課)
− 「沖縄伝統古武道」(仲本政博 著)
参考サイト
− ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/東恩納寛量