9.-上地完英 –

person009b

(うえち かんえい)1911年~1991年 武道家
本部間切伊豆味村出身で上地流開祖の上地寛文の長子である。1927年に父の上地寛文のもとで宗家2代目として修行を始める。1937年には免許皆伝をし、大阪に道場を開設した。1940には兵庫県に道場を移設し、「上地流空手術研究所」に改名した。三戦を修行者の第一関門として、十三や三十六という型は単調で厳しかったが、数々の武人を生み出した。


1942年には、名護の宮里に道場を開設し、近隣の青年や生徒たちの稽古を開始して上地流の芽生えとなる。その後、太平洋戦争となり門弟子が減りながらも、当時の沖縄県知事であった泉守紀がその演武を見学したことで大いに感服され、県庁主催の演武大会においても、流祖代行として演武をした。1944年には、米軍の伊江島上陸にあたり上地完英も召集令状を受け軍人となったが、上地の空手を優れたものとされ、特別保護としてすぐ上地を本部半島へ宜保正勝中尉が派遣したのであった。終戦後には、父の寛文も帰郷し、名護道場が再開され、上地流の復活とその存在を世に知らしめた後、71歳で父の上地寛文はこよなく惜しまれる存在として生涯の幕を閉じた。
1949年に伊良波幸徳と友寄隆宏の勧めで宜野湾村(現在の普天間)に移設し、「空手道場」に名称を変更した。上地流は現在、空手が世界的展開となる始めの最高指導者として、軍人の空手指導にもあたった。その通訳や契約の便宜をとったのは、高宮城繁(たかみやぎしげる)という琉球大学で勉学中の門弟だった。
新たな型も編み出し、上地流を発展させ1967年には日本空手連合会から、1977年には全沖縄空手道連盟より範士十段位が授与された。同年には、「精説 沖縄空手道‐その歴史と技法」が出版され、1991年に空手一筋の生涯に幕を閉じた。

 

参考資料
− 「沖縄空手古武道事典」高宮城 繁 (著), 仲本 政博 (著), 新里 勝彦 (著)
参考サイト