8.-本部朝基 –

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本部朝基本人の伝記にもあるように、彼が生まれた頃は沖縄の空手はまだ一子相伝の形で門外不出の秘術として秘かに伝えられていた。沖縄空手の源流とも言える「手」は、「首里手」「那覇手」「泊手」の三つの流れがあり、本部家に伝えられていたのは首里手であった。彼は本部家の三男故に当然の如く一子相伝の厳しい掟の下で本部御殿手を父からは教えてもらえなかった。しかし空手家としての天性の才能を持って生まれた朝基は11歳の時、兄・朝勇が父から空手を教わっていることを知り、周囲を説き伏せ、その時すでに首里手の空手家として噂の高い糸洲安恒を空手の家庭教師として招いてもらい、空手の道に入った。

武術家として天性の才能と闘争心を備え持った彼は、一途に空手の稽古に打ち込み、急速にその才能を開花させていった。あり余る彼の武術の才能とエネルギーは、系統の違う泊手の松茂良興作や松村宗棍など名のある武人を訪ね、教えを受けた。一子相伝の枠外におかれたからこそ、多くの師から教わることができ、結果として本部朝基独自の空手の体系を構築することができたとも言える。

彼の武術家として際限なく空手に打ち込む情熱は、多くの先生から教わるだけではおさまらず、夜の辻町に出かけ、相手かまわず掛け試し(他流試合・野試合)を挑み、その無謀とも思われる行為をも己の空手の糧としていった彼は多くの空手家の仲間から見れば「異色」であり、異端の武術家として疎外されていた。

皮肉なことに、彼の枠に収まりきれない実戦主義の闘争本能が、1922年(大正11年)、京都で行われていたボクシング対日本の武道家の興行試合で飛び入り参戦し、ロシア系巨人ボクサーを一撃のもとに倒した。その事が、当時の大衆雑誌『キング』で報道されることにより、それまで本土では幻の武術といわれていた沖縄の空手を一躍、日本全国に知らしめ、普及の引き金をひくことになった。

日本最強の空手家と言われた本部朝基のエピソードは枚挙にいとまがない程で、又、空手の歴史上最も有名でこれほど多くの人に親しまれている空手家もいない。

 

参考資料
− 「本部朝基と琉球カラテ」(岩井虎伯 著)
− 「キング」(大日本雄弁講談社 編)
参考サイト
− ウィキペディア
− http://ja.wikipedia.org/wiki/本部朝基
− http://ja.wikipedia.org/wiki/本部御殿
− 本部御殿手HP:
− http://motobu-ryu.org/motobuudundi.aspx