6.-上地完文-

上地流

1897年(明治30年)、20歳にして単身中国へ渡った上地完文は、福建省で南派小林拳法の大家・周子和(シュウシワ)に師事、異国の地で17年に及ぶ唐手一筋の修錬を重ねた。周子和門下生として最終課題の修業は武者修行であり、それは門前市などを訪ね歩き、薬売りの仕事をすることだった。ただその当時の慣習として、薬売りは拳術を極めた武人が漢方薬を学び、行く先々で薬を売って生活費を稼ぎながら武術の修行者として他流試合を歓迎するという暗黙の了解が得られていた。

道場を離れ、薬売りとして修行の旅に出ることは恐ろしい武術や力を持った命知らずの挑戦者が群雄割拠している見知らぬ町々へ一人で出かけ、他流試合を良しとして、実戦を通して己の実力を計り修行を続けて行くことである。

上地完文は、周子和門下生として最後の武者修行の課題を終え、1904年(明治37年)、免許皆伝を授かった。完文27歳の時であった。周子和の強い勧めもあって、完文は独立して道場を開き、師の教え通り「不戦こそ最善の勝利」を信条として門下生を指導していた。しかし完文の拳術を広める夢は3年で挫折する。水利権を巡って争った弟子の一人が、殺人事件を起こしてしまったのだ。これに衝撃を受けた完文は道場を閉鎖、沖縄へと戻った。

その後は、中国福建省での拳友であり、彼の人となりをよく知っている呉賢貴(ゴケンキ、白鶴拳の達人)などに師範学校や警察学校などでの武術指導を強く勧められるが、それらをことごとく辞退し、黙々と農耕生活をしながら17年間に渡って社会から離れ隠棲した。この17年にも及ぶ沈黙は、弟子の犯した殺人事件に対する、完文なりの責任の取り方だったのだろう。

1924年(大正13年)、和歌山に転出。8年後の1932年(昭和27年)、沖縄県人会に請われ、和歌山市で「パイガイヌーン(半硬)流唐手研究所」を開き初めて流派を名乗り、一般に公開した。異国の地で青春の情熱を注ぎ、唐手の奥義を極め、中国福建省を後にして41年、上地完文63歳にして「半硬流唐手研究所」を「上地流空手研究所」と改名し、上地流の開祖となった。

参考資料

− 「沖縄空手古武道辞典」(柏書房)
− 「沖縄伝統古武道」(文武館)
− 「空手道と琉球古武道」(村上勝美 著)
参考サイト
− ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/船越義珍