5.-船越義珍-

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生来の病弱な体質を克服すべく、親友の父である唐手家・安里安恒に入門を許され、若干17歳の船越義珍は彼に託された天命とも言える空手の道にその第一歩を印した。正し、この船越義珍17歳の入門説に関しては異論がある。それは師・安里安恒が1879年(明治12年)から1892年(明治25年)までの13年間、東京麹町で最後の琉球国王であった尚泰侯爵の尚家に仕えていた記録があるためだ。(廃藩置県により琉球国王の称号は廃止され、侯爵の称号を与えられた) 船越義珍が安里安恒の唯一の弟子であったことは事実であるが、首里士族の安里安恒が泊士族の船越に首里手を伝授したのは、本来の系統からすれば異例である。正統である息子よりもその友人の、しかも身分の低い船越義珍に唯一の弟子として首里手の奥義を伝授したことは、安里安恒が義珍の人格と才能を高く見込んでいたからに違いない。

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義珍は医学の道を志すが、その夢は叶わなかった。当時、医師になる条件の一つが士族の象徴であるカタカシラ(琉球風髷)を切ることが条件だった。少年義珍が意を決して、カタカシラを切ることを父に伺うと、「琉球士族の象徴であるカタカシラを切ることは許さん!!」と一喝され、やむなく教員の道に進むことになった。 船越義珍が沖縄で18歳の時に初めて教育者として教壇にたってから30年、その職を投げ打って東京へ出たのは1922年(大正11年)、54歳の時だった。それから船越義珍は清貧の生活の中で東京を中心に空手の普及発展のために文字通り、徒手空挙の世界で己の全てを投じて尽力した。

1924年(大正13年)、慶応義塾大学の唐手研究会を足掛かりに弟子も増え、彼らの浄財による「松濤館道場」が東京の豊島区雑司ヶ谷に建設されたのは、船越義珍すでに70歳の時だが、彼にとっては実に大きな、そして「松濤館流空手道」の発祥の源であり、また世界へ波及していく「松濤館流」の震源地の誕生であった。

参考資料

− 「沖縄空手古武道辞典」(柏書房)
− 「沖縄伝統古武道」(文武館)
− 「空手道と琉球古武道」(村上勝美 著)
参考サイト
− ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/船越義珍